浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

これからの自由のはなしをしよう

◆今この文章を鬼束ちひろを聴きながら書いている。なんだこの仰々しいタイトルは。

◆自由とは多くの選択肢が存在することではない。自分の納得できる選択肢を選び取れるということである。

◆ゲームの自由度の話でも同じで、実際に取れる選択肢の多寡は問題ではなく、選択肢の説得力こそが重要である。つまり、自由度が足りないゲームとは、選択肢の少ないゲームではなく、納得できない選択肢を回避できないゲームである。単にジャンプのできないゲームは自由度の低いゲームではない。ジャンプできるのにも関わらず、飛び越えられそうな段差が飛び越えられないゲームこそが自由度の低いゲームなのである。

◆翻って近頃の世の中をみると、選択肢自体は加速度的に増えてはいるけれども、納得できる選択肢がとれるかというと微妙かもしれない。近頃増田を読んでいると、婚活やら街コンやらマッチングアプリといったものに対する怨嗟が目につく。それらのツールは選択肢自体を増やすことには貢献しているけど、納得できる選択肢を得る手段になり得てるのかというと、もともとモテる人間以外にとってはそうなっていないというのが実情だろう。就活やらSNSとかも似たような構造になっていると思う。世界中の誰とでも繋がれるようになったからといって、それがなんだってんだ。

◆じゃあどうすりゃいいんだ、ということになるけど、どうすりゃいいんでしょうね。意図的に選択肢を減らす練習をした方がいいのかもしれない。そうすれば納得できる選択肢がより明確になるかもしれない。あと、ある程度粘ってみることが大事かも。人生はゲームとは違うので、飛び越えられそうな段差が飛び越えられなくても、何回もジャンプしまくってるうちに飛び越えられちゃったりする*1。飛び越えられなかったらそれはそれで諦めるきっかけになる。

*1:ゲームでも判定が甘かったりすると飛び越えられたりしますね