浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

なぜ靴下は決まって片方なくなるのか

◆答えは単純で、両方なくなったら、なくなったことにさえ気づかないからだ。靴下に限らず、無自覚な喪失というものがある。これは時として意識される喪失よりも深刻で、対処のしようがない。金を失ったら仕事をすればよい。愛を失ったら愛を買えばよい。コンビニでも売ってるらしいし。でもなくしたことに気づかないなら、それを求めることすらできない。ハウスダストを纏った三年日記を見返す。昔の自分が連ねる言葉は、正直なところよくわからなかった。切実であることはわかるが、その切実さがどこからやってきたのか、それを思い出すことはできなかった。過去の断片だけが元気よく脳から顔を出してくる。知らない街の知らない食堂で飲んだ赤だしのかき玉汁と、古紙回収車のさみしい音楽と、ワックスのにおいと、新入生歓迎会のカラオケで歌った電気グルーヴと、ベゼル幅の広いスマホと、グルーガンの温かさと、塩酸に溶かされる鉄片と、ブラックニッカの牛乳割りと、川でひなたぼっこする亀と、父親の車中で噛むスウィーティーガムと。なにか、なにか大事なものをなくした気がするのだ。それがなんだったかはもう知れない。