浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

日常について

 今日、銭湯に行ってきた。そこの湯の温度は熱すぎるくらいに熱く、まず水風呂で身体を冷やしてからじゃないと入れないのだが、それはともかくとして。湯船から出ると、常連さんが、「今日は来るのが早いですね」なんて会話を交わしていた。この会話が成立するのは、毎日のように、同じ時間に銭湯に行く習慣がある二人が、顔見知りになり、そして会話をするほどに仲良くなるというステップを踏んだ(そして、今日はたまたま早い時間に来た)からだろう。それって結構スゴイことだ。「今日は来るのが早いですね」なんて何気ない言葉にも、何ヶ月か何年かの日常が横たわっているのだ。そう思うとなんだか妙に感傷的な心持ちになってしまった。しかも、よくよく考えると、これは銭湯に限ったことじゃない。みんな、毎日仕事場に向かって通勤電車に揺られたり、毎日グラウンドを走ったり、洗濯物と今晩の献立と家計簿と格闘してたりするわけだ。勿論自分だって日常を繰り返す一員だ。日常を日常たらしめているのは、その単調な、しかし偉大な反復によってなのだ。

 みんな、必死に日常を守ろうとしている。それが、幸福な日常であっても、クソッタレの日常であっても。