浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

熱意について

 自分には、どうも熱意というか、情熱のようなものが欠けているなと感じることがよくある。なにか新しいことを始めてみても、面白いなとは思うものの、そこからが続かないのだ。いったん興味を持ったものでも、深く掘り下げよう、という気になれない。

 今日、定食屋にご飯を食べに行った。待ち時間に、そこに置いてあるマンガを読んでいたのだけれど、これがなかなか良くて、家までの帰り道、ずっと余韻に浸っていた。けれど、わざわざ買ってまで読もうとはならないのだ。ゲームでも小説でもそうで、鑑賞中はその対象にきちんと没入できているのだが、それが終わるととたんにどうでも良くなる。面白かったからといって、作者のことをもっと知りたいとか、同じ作者の作品も読むぞとか、同じジャンルの作品も制覇するぞ、とはなかなかならないのだ。自分は万事においてこんな感じで、中途半端なのだけれど、一方で常になにかに情熱を注いでいるような人もいる。自分はそのような、情熱的な人間にはなれないだろうな、という諦念のようなものがずっとある。

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 この増田程自分は追い詰められていないけど、この増田が言っていることは分かるような気がする。自分の好きなことですら、他人ほどの情熱を注げないという辛さ。才能がないとか、注ぐだけのリソースがない、という辛さとはまた違う。自分が好きであるということそのものを否定されるような気がするのだ(実際、そうなのかもしれないが)。だからといって、無理やり情熱をひねり出せば良いのかというと、それもまた違う気がする。

 実際は、増田や自分のような人間はそう珍しくないと思う。ただ、ネットだと情熱的な人間が目立つので、ネットの海を揺蕩っていると、どこにも居場所がないような気持ちにさせられることも、まれにある。