浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

下書きのまま埋まっていた文たち

◆自分の能力を向上させたいと思わない近頃。体力つけたいとか、自炊上手くなりたいとか、色んなことを知りたいとか。そのおかげか生きやすくはなったのだけれどすこし物足りない。人生が消化試合になった感がある。人生に勝利条件はないので各々で勝手に目標設定してよろしくやっていくしかないわけだけれどもね。

◆他愛のない記憶ひとつ。昔住んでいた寮の近くに2つのコンビニがあった。ひとつは100円ローソン、もうひとつはセブンイレブンだった。自分は100円ローソンの方に通っていた。セブンイレブンに比べて圧倒的に安かったからだ。月4000円のボロい寮に住んでおいて、豪奢なコンビニを利用する気にはなれなかった。しかしいつ頃だろう、100円ローソンの味に飽き(いくら品数が多いとはいえ、圧倒的に飽きやすい味のもので溢れていた)、吝嗇精神に負けてセブンイレブンに入ってしまった。目に映る惣菜のさまざまが美味しそうで感動したことを覚えている。実際食べてみるとこれが全部美味しかった。その頃の輝かしい印象が未だに残っていて、コンビニはセブンを専ら使っている。

◆自分はわりあい規則だったりマナーみたいなものを守るほうではあるんだが、別に倫理的に生きようという信条があるわけではなく、むしろ反倫理的な人間だと思っている。それでもルールを守るのは、単純にルールを破ってまでやりたいことが存在しないだけなのだ。この前地元の友人たちと飲みに行ったが、俺以外は飲みに行ったあと風俗に行くらしい。なんかそこに差を感じてしまう。欲求の差というか。この欲求ってのが案外大事で、欲求があるからこそ人間頑張れるみたいなところがあると思う。風俗行くにはお金稼がないといけないしな。何もしたくない人間がなにかをなすことなどできないのだ。欲求の薄さというのはかねてから自分の課題であると認識していて、とはいっても欲求をゼロにする方向性は現実的でない。ブッダじゃあるまいし。このまま欲の少なさに胡座かいて何もしないままでいると、後年後悔するような気はする。今のままだと少なくとも孤独死まっしぐらではある。今のところ自分が欲しいと言えるのは話し相手かな。あと称賛。

◆人は諦めることを覚えたときはじめて大人になるのだと思う。幼い頃漠然と抱いていた将来の夢であったり、自分への可能性のようなものが、完全に満たされる人間はほんの一握りでしかない。自分の描く理想と力量とのギャップを認め、諦めることを覚えたとき人は青年期を脱し大人になる。自分はそう考えている。その限りで言えば自分は大人になった。諦めることが上手になったので。