浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

好きなことについて

◆趣味というか好きなことを見つけたくて、いろいろやってみたけれど、なんつーか、結局昔から好きだったことじゃないと続かないな。自分が現在好きといえるものは、たいてい幼い頃から好きだったことのように思う。新しい好きと出会うためには、過去を振り返るのが意外と近道だったりするかもしれない。ということで、昔好きだったことを思い出してみる。

◆小さい頃は何して過ごしていたのだろう。お絵描きとかしていたな。絵を描くというより、文字とか数字が好きで、スピードメーターとか電卓とか、空想上の機械とかそんなのばっかり描いていた記憶がある。幼稚園の頃に自分が描いた絵を見る機会が以前あったのだけれど、幼稚園児の絵としては異様に文字が多かった。とにかく記号だったり数字だったり、整然としたものに対する執着があった。同様に、テレビゲームとかワープロで遊ぶのも好きだった。テレビゲームにしろワープロにしろ、前と同じアクションをすれば、きちんと前と同じリアクションが返ってくる。人間だと、同じ行動をとっても、場合によって異なる反応が返ってくる。機械にはそういう気まぐれさはないから好きだ。記号好き数字好きで、テレビゲーム、ワープロ好きなのは今も変わらず。移り気で飽きっぽい自分にとって、コアのようなものといえるかもしれない。

◆お絵描きとかもやりたいと思ってはいるのだけれど、絵に対する執着は幼い頃は薄く、ゆえに始めてもすぐ挫折する可能性は高い。マンガとかも読まないこともないし、上手い絵に感動することもあることにはあるのだけれど、マンガを読むのも単純に家族がマンガ好きだったからというのが大きいように思う。環境依存な面が強い。まあそれでも絵(とりわけマンガの絵)というのは現実よりは記号的なので、現実の複雑さよりは好きであることには変わりがない。

◆音楽でいうと、親のお下がりのケータイで音鳴らして遊んでいた。昔のケータイは音符を手打ちして曲を鳴らすことができた。作曲というにはあまりに稚拙ではあったが、結構楽しかった。今でも聴けるだろうか。

◆ごっこ遊びだったり、色々妄想するのも好きだった。ぬいぐるみを使ってお店屋さんごっことか、わりといい年までやっていた。あと、自作ゲームの妄想とか。これは今でもやっている。小学生の頃、無人島での冒険譚を想像して書けという課題が出て、普段の作文はほとんど書けないのにクラス一の超大作を提出した記憶がある。小説とか書いてみるのも楽しいかもしれない、でもやっぱり楽しくないかもしれない。妄想は好きだが文章を書くのは好きでない。文章を書く行為というのが、人間の脳にとってかなり不自然な行為であるような気がずっとしていて、実際頭に結構負担がかかるのだ。人間の思考は基本的に脈略のないものだけれど、それを無理矢理秩序立てて他者に伝わるよう編集する、という行為を経ないと文章は出来上がらないわけで、それはちょっと大変なことではある。このブログ記事みたいにとりとめのない感じの文章ならいくらでも書けるっちゃあ書けるのだが。

◆あと忘れていたのが、放浪。体力ない割にふらふら出歩くのは好きだった。放浪は好きだが、街を歩く他人とか外の風景とかに関心を抱いている風でもないので、放浪が好きというよりは、軽い運動をしながら色々ぼーっと妄想するのが好きなだけかもしれない。

◆疲れた、続きを書くかもしれないし、書かないかもしれない。