浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

選挙について

 誰にでも、興味の持てない事柄がひとつやふたつあるものだ。自分の場合は多すぎて困るくらいなのだけれど、そのうちのひとつが政治だったりする。案の定というか、今まで選挙に行ったことがない。そもそも誰が出馬しているか、どの党がどんな政策を打ち出しているかすらよく知らないので、投票という段階まで辿りつけない。

 そんな感じだから、選挙前はネットで見るコンテンツ量が減って少し憂鬱だ。だいたい、選挙をすることでどういう意義があるんだろうか。ということをつらつらと考えていたのだけれど、自分のような政治に無関心な人間さえもそういうことを考える時点で、めっちゃ意義あるじゃん、とふと納得した。普段それほど政治に興味をもたない人でも、選挙前には各政党の政策を知ろうとしたりするかもしれない。そこまでいかなくとも、自分のように、政治とはどういうものか、ほんの少しだけ考えてみたりするかもしれない。政治というものに関心を持つための大掛かりな儀式として、選挙は存在する、ともいえるだろう。その儀式の効力は、選挙に行かない人にも有効だ。

音楽について

 最近、音楽を聴くことに、今まで以上に面白みを感じるようになってきた。音楽という媒体には、「いま、この瞬間」に浸りきることができる、という強さがある。現在という瞬間には、音しか存在していない。自分すら消えてしまうような、そんな感覚。

 もちろん、漫画や小説などでも、熱中して我を忘れるようなことはある。でも、それは音楽での感覚とはまた別種のものだ。何がその違いを生み出すのだろうと考えてみたときに、マンガや小説には、物語が存在するという事実に思い当たった。物語は、基本的に未来志向である。ページを捲るという行為は、続きが気になるという衝動によってなされる。そこには未来への期待しか存在しない。だからかは分からないが、漫画や小説だと、現在という瞬間は、来るべき未来への生け贄という感覚がある。これは、「いま、この瞬間」に浸る感覚とは対照的だ。

 音楽にももちろんそのような部分はあるのだけれど*1、現在志向が強い媒体であると思う。単純に、未来志向に飽きてきた、というのもある。未来への期待にどこか乗っかりきれない自分がいるのだ。

*1:サビ前には決まって、サビが来ることを匂わせるフレーズが入るけれど、これは未来志向的といえるかもしれない

1億人について

 どこを見渡してみても、こいつには敵わないんじゃないか、と思ってしまうような人は居るものだ。自分よりずっとずっと情熱的な(or 面白い or 強烈な or 頭脳明晰な or コミュ力に長けた or 我慢強い etc..)人。そんな人を見て、どうしても気が滅入ってしまう日もある。けれど、日本だけで1億2800万人もの人間が居ることを考えると、なんとなく気が楽になる。そりゃあ1億人も居りゃあ、スゴイ人なんていくらでも居るわな。だって1億人である。

スマホゲーについて

 ゲームにハマりたい。が全然続かない。大した本数やってないし、基本的にすぐ飽きるし、自分はそもそもゲーム好きではないのだろう。ただ、人生でもそうないレベルの感動をゲームで何回か味わってしまったせいで、呪縛のようなものに取り憑かれてしまっている。

 じゃあ気軽にできるスマホゲーあたりに手を出してみるか、と思うも挫折。人気のあるスマホゲーは、チュートリアルがやたら長いのが多い。これがどうも作業感があって、チュートリアルでだいたい投げてしまう。自分が思うに、良いゲームは大抵チュートリアルと本編とがうまい形で融合している。説明書の丸写しみたいなチュートリアルをやらせるのは、制作側の怠慢じゃなかろうか。と偉そうなことを口走ってみたりする。

 例えば、星のカービィというゲームボーイのアクションゲームがあるのだけれど、このゲームではホバリングという空中を浮くアクションが重要だ。1面のまず最初に、ホバリングを使わないと超えられない高い壁が出てくる。ステージが、そのままホバリングチュートリアルとして機能するように作ってあるのだ。この仕組みを知ったときは感動したなあ。

05 教えてくれるな | 桜井政博のゲームについて思うことアーカイブ - コミニー[Cominy] / ブログ

 リンクも貼っておこう。宮本茂氏がそのステージの意図に気づいたというエピソードもさすがというか。マリオだって、きちんと1面がチュートリアルとして設計されている。

マリオ研究

 これもリンク貼っておこう。もちろん、スマホゲーという様式はまだ歴史が浅いので、本編とチュートリアルとをうまく融合させる方法がまだ見つかっていない、というのはあるのかもしれない。スマホゲーはどんどん進化しているけど、僕ほど怠惰な人間だと始めることすら叶わない。進化の余地はまだまだたくさんあると勝手に思っている。

ぶら下げられた人参について

 欲しいけれどなかなか手に入らないものというのは、手にした瞬間に色褪せてしまうことがある。この感覚を最初に自覚したのは中学生の頃だったように思う。1年待って、お年玉をはたいてニンテンドーDSを買ったが、いざ手に入れると、喜びでなく一抹の虚しさのようなものを覚えた。ソフトはなんにしようかな、何色がいいかななどと頭を悩ませている瞬間こそが最も幸福だったのだ。

 そういったことを繰り返しているうちに、なんだか欲しいはずのものを純粋に欲しいと思うことができなくなってしまった。今までの自分は、美味そうな人参がそこにぶら下げられていたからこそ、なんとか前に進もうという意思が生まれていた。あの人参は実は美味しくないのでは、と疑念が頭をもたげてくると、なんというかどうしようもない。ぶら下がるに値するような、美味しいと信じられるような人参を必要としている。

42℃と幸福について

 今日は昼からお風呂に浸かった。暖かい陽が窓から刺さり、加えて湯温がバッチシだったので、自然と「幸せだなあ」という声が漏れてしまった。けれど、「幸せだなあ」と言うには少し大げさ過ぎたような気がして、なんだか逆に萎えてしまった。多幸感を自覚した時点で、蜃気楼のように多幸感は消えてしまうのだ。幸福とは、忘我の境地において存在するものなのかな、と思っている。だから、『私は現在幸福なんだと認識している』という状態はパラドキシカルで、成り立たないのだろう。

 
 

 

相合傘について

 雨に降られながら、近所のスーパーまで夜ご飯を買いに行ってきた。不器用な人間が懸命に自炊したところで、スーパーの四割引の惣菜には勝てないのだ。道中、中年の夫婦が肩を寄せながら、相合傘で歩いているのを見たが、その振る舞いの自然さに感動してしまった。若いカップルにありがちな、どこかぎこちない、ラブラブな雰囲気を演出するための相合傘と違う。それは、雨を避けるという実用に即して、けれど愛も垣間見えるような、そんな凄みを持つ相合傘だった。素直に、羨ましいと思った。