浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

人生について

 ろくに人生に向き合ってこなかった自分が、人生について、なんて大げさなことを考えようとするのは、言うことが無くなったミュージシャンが愛だの平和だのを持ち出すようなもので、つまり殆ど何も考えていないのと同じで、今日の献立はどうするか、洗濯物をいつ干すか、今朝の憂鬱なニュースをどう考えるか、好きでもない嫌いでもない知人とどう付き合うか、そういう些細で具体的な日常を丁寧に考え抜いていくことこそが、人生を考えるということなのかもしれない。

先延ばしと無趣味について

 「好きな食べものを先に食べる派? 後に食べる派?」という、割とどうでもいい質問がある。割りとどうでもいいので、この質問に回答することはしない*1。ただ、「好きなことは先に済ます派? 後にとっておく派?」と問われると、断然後者である。後回しにしすぎて、結局やらずじまいということもよくある。
 
 自分の中では、楽しいことに手をつけるのは、嫌なことを始めるのと同じくらい難儀なことだ。楽しいことが楽しく見えるほどに、困難さは増す。その楽しいことは、果たして今行うに値するのか? もっとベストなタイミングがあるのではないか? と考えてしまうのだ*2。嫌なことは当然先延ばし、好きなことも先延ばし、となれば、今できることは、どうでもいいことしかない。面白いと確信しているゲームやら本やらを積んで、楽しさの期待値が低い*3ネットサーフィンにうつつを抜かすのは、多分そのためであろう。いや、ネットの中ですらこの症状は深刻で、好きなサイトの巡回はとっておいて、別に興味のない情報ばかり見てしまうというのはありがちだ。なんというか、損な人間だなとは思う。

 話は変わるが、自分には無趣味な人間である。物心ついたときからそうだった。趣味と言うに値するような、好きなことがやっと見つかっても、いつの間にか離れてしまうのだ。それも、前述した性格のせいだとすれば、なんとなく納得である。この性格を直さないかぎり、あるいは、この性格を凌駕するほど猛烈に好きな対象を見つけないかぎり、自分が趣味を獲得することはできないのだろうか。

*1:強いて言うなら、好きだろうと嫌いだろうと、はじめに汁物に手をつける。

*2:恐らくこれは、広義の貧乏性と言ってもいいものだと思う。これを買うお金で、もっといいものが買えるのではないかと考えて、結局何も買わないのにも似ている

*3:ネット上のコンテンツは他の娯楽に負けないくらい面白いものがたくさんあると信じているが、自分に合うものを探すまで時間がかかり、玉石混交の感が強いのは否めない。付言するなら、ネットの中毒性はその玉石混交さにあると思う。

紙の日記と電脳日記について

 ここ数年、紙の日記をつけている。たまに忘れることもあるが、基本的には毎日、行末までびっしりと書いている。書く内容についても特に思い悩むことはない。頭に浮かぶ適当な思いつきをそのまま書きなぐる。書く、という作業そのものが楽しいのだ。

 翻って、ウェブの日記である。ブログは、続かない。続いた試しがない。他人が見るものである以上、自分の伝えたいことをうまく伝えたい。文章の構成や文体だって最低限気を遣いたい。これらの思いは、継続的なブログ更新を目指す上では、重荷となってしまう。時間を掛けて長文を書いてまで、わざわざ他人に伝えたいことなんて、そう思い浮かぶものでもないのだ。よしんば思いついたところで、それをうまく言語化するのには大抵困難を伴う。文才の欠けた自分には、他人が読みやすいと感じるような文章を書くハードルだってそもそも高い。

 自分にとって、ブログを書くことは、紙の日記に比べると辛く、労力を要する作業なのだ*1。それだけに、うまく書けたときの快感はひとしおなのだが。*2

*1:もしかすると、手書きとキーボードという差があるかもしれない。自分の手で文字を書くのは創造的で楽しい作業だが、キーボードを叩くのはそれに比べると遥かにつまらない(と感じる)。高級キーボードでも買うと少しは変わるのだろうか

*2:こんなさほど長くもないブログですらこうなのだから、小説なんか書く人ってどれほど辛いんだろうか(そしてうまく書けたときは気持ちいいのだろうか

帰省、或いはアスペルガー症候群について

 少し前から、地元へ帰省中である。ビール片手に、焼き鳥串をつまみながら談笑していると、「東大生の何割かが自閉症?かなんからしいが、お前の大学はどうなんだ?」と、父親がよく分からぬ質問を投げかけてくる。そういえば少し前に、はてブで下の記事を見かけた。ネット中毒もたまには役に立つものである。


www.j-cast.com


 この記事が信憑性に欠けるものであることをまず指摘し、でもまあそういう傾向の人は多い気もするよ、と同意を示した。その後、自閉症自閉症スペクトラムの違いを説明する羽目になった。すると、「なんだかんだ自然に治るんだろう?そうでもないと社会でやっていけないもんな」と無理解の典型例のような返答をする。

 自然と、ビールを飲むペースが早くなった。素面ではこの話題をやり過ごすことは難しい、と精神が判断したのだ。というのも、自分もその自閉症スペクトラムとやらの一員かもしれない、という認識があったためである。

・想像力が乏しい
・話し方が大人びている
・相手の目を見て話しをしない
・コミュニケーションを取ることが苦手
・会話がかみあわない
・手足を使うことに不器用
・運動が苦手
・手順にこだわる
・言葉に抑揚がない
・相手の気持ちが分からない
・単調で一本調子のしゃべり方をする
・形のないものに対して極端に理解が乏しい
・表情やしぐさから相手の気持ちを察することが苦手
・規則を守ることが得意
・物事の理解は出来き、レベルがかなり高い場合もある
・特定のモノに対して尋常でないほど興味を示す
・文字や日付や記号などを覚えるのが得意である
・字や数字や絵を描くことなど独特な才能を持っている場合がある
アスペルガー症候群の子供の特徴は、意外に多い!例えば…

 上の文章は、アスペルガー症候群の幼児がよく示す症状を記したものだ。自分に心当たりのあるものをざっと挙げていくと、まず、相手の目を見て話すことは未だにできない。手先が不器用で、中学に入るまで靴紐を結ぶこともできなかった。勿論運動も大の苦手。規則的なものは好きで、幼少の頃は説明書やら辞書ばっかり読んでいた。小さい頃は人の気持ちが分からず、癇癪持ちだった。3歳まで全くと言っていいほど喋ったことがなく、心配だった、と母親から聞いたこともある(上には載っていないが、言語発達の遅れが見られることもあるそうだ)。

 ただ不思議なのは、自分が今アスペルガー症候群の症状を示しているかというと、決してそうではないということだ(外から自分を見ないかぎり、ホントのところは分からないが)。昔と違って、こだわりなんてほとんどないし、幼少の頃のような生きづらさを覚えることもない。空気だってそれなりに読めているんじゃなかろうか。仮に幼少の頃アスペルガー症候群だったとすると、「自然に治るんだろう?」という父親の無遠慮な言葉は、奇しくも自分の場合には当てはまったのだ。今の僕に言えることは、幼少期の自分は、アスペルガー症候群らしき症状があった。それだけだ。

 今回の出来事で感じたのは、自分は自閉症スペクトラムのことを全然よく分かっていないなあ、ということだ。当事者に近い立ち位置の自分ですらこれなのだから、無関係の人ならばさっぱりわからないのも至極当然なことであると思う。ついでに言うならば、上の記事も、「当事者に近い立ち位置の人間」による漠然とした知識によって成り立っているようにも見える。それは非常に危ういことだ。

カフェインについて

 些細なものでもいいから、日常で感じた諸々を書き留めていこう、というのがこのブログを立ち上げたときの趣旨だった。はずなのだが、幸いなことに(自分基準では)結構多くの方がブログを見に来られてるので、なんとなく肩肘を張ったものになってしまう。そして当然更新頻度は下がる。これからは、毒にも薬にもならないような記事をたくさん書くことで、ブログ記事のハードルを下げていきたい。

 で、毒にも薬にもなるカフェインの話。お茶、ココア、コーヒー、コーラ。みんな大好きな嗜好飲料にはだいたいこれが入っている。当然、これらの飲み物とはそれなりに長い付き合いだ。しかし、自分がカフェインに弱い体質であることに気づいたのはついこの前のことだった。

 自分は普段コーヒーを飲む人間じゃないのだけれど、その日の夜は妙にコーヒーの気分だったので、なんとなくセブンコーヒーを買ってみた。しかもRサイズじゃなくてLサイズ。喉が渇いていたのもあって、それを一気に飲み干したのがまずかった。心臓バクバク、謎の浮遊感、顔は熱くなる、頭が痛くなる、テンションがおかしくなる。それが収まると、猛烈な不安感に襲われる。このままずっと眠れないまま死んじゃうんじゃないか、という妄想じみた観念に取り憑かれる。あまりにきついので、カフェインでググッてみると、どうやらカフェイン過敏症というものがあるらしい。

精神症状

落ち着きがなくなる、緊張感、感覚過敏、多弁、不安、焦燥感、気分高揚、一時的な不眠症を生じる。重症になると、精神錯乱、妄想、幻覚、幻聴、パニック発作、取り乱す、衝動性などが現れ、酷いと自殺行為に及ぶ場合まである。神経質な人やうつ病、不安障害、パニック障害などを患っている人は重症化しやすく、症状の悪化をきたしやすい。

身体症状

胃痛、胸痛、吐気、嘔吐などの消化器症状、心拍数の増加(時に不整脈)[5]、心筋収縮の促進、心室細動、血流増大、動悸、呼吸が速くなる、頻尿など、循環器の症状。また一時的な筋骨格の持久力増進、振戦、むずむず感を生じる。重症化すると、足がつるなどの痙攣を起こし、歩行が困難になる。また、瞳孔拡大や顔が赤くなったり、頭痛を引き起こす。

カフェイン中毒 - Wikipedia

 カフェインを摂り過ぎると誰でもカフェイン中毒になるのだけれど、その閾値が低いのがカフェイン過敏症らしい。過敏症と言うほどではないかもしれないが、自分は恐らくカフェインに弱い体質であることは間違いない。だって、昔からコーヒー飲むたびに、胃がしょっちゅう痛くなったし、気分も高揚したもの。普段はすぐ寝るのに、たまにどうしようもなく眠れなくなることが今まであったが、あれはカフェインのせいかもしれぬ。なぜそんなものを今まで、(少ない頻度とはいえ)飲んでいたかと言われると、正直不思議なものである。

 そこで、今日は人体実験と称して、グリコのカフェオーレ、500ml入りを買って飲んでみた。美味しい。症状としては、不安と興奮がないまぜになったような妙な感情。胃がふわふわ浮いている感覚。ほんのりとした頭痛。頻尿。そして、投稿時間を見てもらえばわかるとおり、眠れない。これは役満ですわ。昔からカフェオーレは割と好きで飲んできたけど、正直ここまで効いた覚えはないので、多分カフェイン本来の薬効に加えて、プラシーボ効果のおまけがついている。自分がカフェインに弱いという認識を得た以上、もう今までのようにはカフェイン摂れないな。残念っちゃあ残念でもあるが、不眠に侵される頻度が低くなるであろうことを考えれば、まあ良いか。質の高い睡眠ほど幸せなものはない。

暇と退屈について

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

  

 上の本を紹介しているブログを読んだ。それで思い出したのだが、浪人時代に紀伊国屋でこの本を立ち読みした。浪人の頃は、本分である受験勉強に対する熱意を無くし、かといって特にすることもなく、退屈で退屈で仕方なかったので、本の内容に惹きつけられるものがあったのだろう。内容はだいぶ忘れてしまったが、立ち読みで全部読み切ったと記憶しているので、結構面白かったのだと思う*1。その本に、人間はもともとノマドだったけど、農業技術の発達により定住することになり、そして定住が暇を生み出した。というような内容の箇所があった。浪人時代は行くあてもなく数時間チャリを漕いで暇を潰す毎日だったので、このあたりに共感したことをうっすらと覚えている。移動という行為は、暇つぶしの方法として、とても優れたものだ。

 上の段落とはあまり関係ないのだが、退屈というのは毒であるが、それをうまく使いこなすと薬にもなるのだな、と近頃とみに感じる。学校教育は、退屈というものをうまく取り扱っている。例えば、講義という形式は、適度の退屈を担保する、という点において、非常によく出来ている。落書きするか妄想するか、ノートをとって話を聞くかするしかない、という退屈な状況だと、興味のないはずの話もそれなりに面白く聞こえてくるものだ。テストだってそうだ。世の中のテストは、重要であれば重要であるほど待ち時間が長くなるという性質がある。勿論、何らかの不手際に対応できるように余裕をもって時間をとっている、ということだろう。一方で、退屈をつくりだすことで問題への集中をもたらす効果がある、と考えることもできる。情報に対する飢餓状態におくことで、普段興味のないものに対しても集中できる、ということは間違いなくある。自分が一冊の本とともに牢獄に入れられたら、どんなにつまらない書物であっても貪り読むことになるだろう。インターネットは、退屈を徹底的に殺しにくる媒体なので、その点では非常に危ういなと思う。退屈をうまく飼い慣らせる人間になりたい。

*1:すごくどうでもいいことだが(というこの前置きがどうでもいいのだが)、椅子に座って読んだので、厳密には立ち読みではない。本屋の中でタダで読んだ、というニュアンスを出すために立ち読み、と表現した。

日常について

 今日、銭湯に行ってきた。そこの湯の温度は熱すぎるくらいに熱く、まず水風呂で身体を冷やしてからじゃないと入れないのだが、それはともかくとして。湯船から出ると、常連さんが、「今日は来るのが早いですね」なんて会話を交わしていた。この会話が成立するのは、毎日のように、同じ時間に銭湯に行く習慣がある二人が、顔見知りになり、そして会話をするほどに仲良くなるというステップを踏んだ(そして、今日はたまたま早い時間に来た)からだろう。それって結構スゴイことだ。「今日は来るのが早いですね」なんて何気ない言葉にも、何ヶ月か何年かの日常が横たわっているのだ。そう思うとなんだか妙に感傷的な心持ちになってしまった。しかも、よくよく考えると、これは銭湯に限ったことじゃない。みんな、毎日仕事場に向かって通勤電車に揺られたり、毎日グラウンドを走ったり、洗濯物と今晩の献立と家計簿と格闘してたりするわけだ。勿論自分だって日常を繰り返す一員だ。日常を日常たらしめているのは、その単調な、しかし偉大な反復によってなのだ。

 みんな、必死に日常を守ろうとしている。それが、幸福な日常であっても、クソッタレの日常であっても。