浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

センスに対するモヤモヤについて

 なにがしかの作品に対して感想を添えるときに、「この作品はセンスが無い/有る」といったような言葉で片付ける人は、意外と多い。この言葉を目にするときになんとなく思ってしまうのは、この人には、センスの有る無しを判断するだけのセンスが備わっている、という自負が有るのかしら、ということだ。センスのない人間が、「センスが無い/有る」という言葉を発したところで、なんの説得力も有することはない。自分は、己のセンスに対して自信を持てない人間なので、こういう言葉に対して、言いようのないモヤモヤを感じてしまうのかもしれない。  

 書いている途中で思ったのだが、センスという言葉が、どちらかと言えば、個人的な好悪の表明の言葉として用いられがちで、そのくせ、なんとなく客観的な雰囲気を醸し出しているのが、このモヤモヤの原因ではないか。例えば、「この服はセンスが有る/無い」という言葉は、日常会話の範囲内では、「この服が好き/嫌い」程度の意味でしかない。しかし、「センスが有る/無い」とすると、いかにも、センスという絶対的、客観的な尺度が存在しているように見えるではないか。勿論、全ての人間に共通する美的基準というものを否定しているわけではない。しかし、日常では、その基準をセンスという言葉で呼ぶわけではどうやらないらしいのだ。このあたりの齟齬が、自分が感じたモヤモヤの、勘所なのだろうなあとなんとなく納得した。