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コインランドリーについて

 ごはんを食べるのは、自分のような人間にとって数少ない楽しみの一つではあるが、どうも気が進まない日もあって、それが今日という日であった。単に食欲が湧かないという日もあるが、今日はそういうのとも違う。言葉にするのが難しいが、ごはんを食べなきゃ腹が減る、ということそのものに対して憤りを感じていたのだと思う。腹が減るから飯を食べなきゃいけない、眠たくなるから寝なきゃいけない、トイレに行かなきゃいけない、風呂に入らなきゃいけない、洗濯しなきゃいけない、定期的に爪を切らなきゃいけない、学校なり会社に通ったりしなきゃいけない。生活する上で、僕たちは多かれ少なかれそういった繰り返しを強制されている。普段はそれに対して何も思うことはなく、むしろ喜びさえもするのだが(今日の昼飯は何にしようかな!)、その枷というものが耐え難く思える今日のような日がある。僕らはその束縛から逃れることはできない。果たして死ぬまで、この無意味にも思える反復を何回繰り返さねばならないのか。そう考えると、憂鬱で仕方なくなるのだ。

 そんなことを考えながら、冬物の毛布を洗いにコインランドリーへと向かった。自分はコインランドリーが好きだ。わざとらしい清潔感のある内観と、煌々と灯る蛍光灯。洗濯という目的にしてはやけにものものしいドラムが並ぶ姿は、SFチックでなんだか素敵だ。ドラムの中で廻る毛布を見ていると不意に、自分の人生が肯定されたような感覚を覚えた。ドラムの単調な回転が、少しずつ少しずつ汚れを落としていく。そのひたむきな繰り返しに救われたのだ。洗濯機が汚れを落とすように、この生活の無意味に思える反復も、徐々にだけれど、なにかの形を創り上げていくのだろう。毛布を洗いに来たのだが、命の洗濯にもなった。

留年について

留年について-カウンセリングルーム(京都大学)

 京大カウンセリングルームの、留年についてのページがホッテントリになっていた。実は、前から個人的に何度となく読んで、そのたびに励まされている文章だ。その文章が評価されていることへの嬉しさよりも、正直、悔しさが勝った。なぜって、もし自分がそのときブクマしていれば、ファーストブクマが伸びるという最高に気持ちいい体験ができたかもしれないからだ。

 初めてこのページを読んだとき、ブクマするのを躊躇して、結局やめた記憶がある。自分のパーソナルな情報が浮かび上がるのを恐れたのだ。だって、こんなページにたどり着く時点で、留年しそう/する大学生だと決まったようなものじゃないか。その頃の自分は、匿名空間の延長線上としてはてブを使ってきたので、些細な情報でも漏らしたくなかったのだ。でも2年もブクマしていると、そんなことはかなり難しいということが分かってくる。ブログでも既に学生であることを匂わせているし、もう今となっては関係のないことだ。


 久々に書いてみたけど、あんま留年関係ねえ……。逃がした魚は大きかったというだけの話じゃないか。

選挙について

 誰にでも、興味の持てない事柄がひとつやふたつあるものだ。自分の場合は多すぎて困るくらいなのだけれど、そのうちのひとつが政治だったりする。案の定というか、今まで選挙に行ったことがない。そもそも誰が出馬しているか、どの党がどんな政策を打ち出しているかすらよく知らないので、投票という段階まで辿りつけない。

 そんな感じだから、選挙前はネットで見るコンテンツ量が減って少し憂鬱だ。だいたい、選挙をすることでどういう意義があるんだろうか。ということをつらつらと考えていたのだけれど、自分のような政治に無関心な人間さえもそういうことを考える時点で、めっちゃ意義あるじゃん、とふと納得した。普段それほど政治に興味をもたない人でも、選挙前には各政党の政策を知ろうとしたりするかもしれない。そこまでいかなくとも、自分のように、政治とはどういうものか、ほんの少しだけ考えてみたりするかもしれない。政治というものに関心を持つための大掛かりな儀式として、選挙は存在する、ともいえるだろう。その儀式の効力は、選挙に行かない人にも有効だ。

音楽について

 最近、音楽を聴くことに、今まで以上に面白みを感じるようになってきた。音楽という媒体には、「いま、この瞬間」に浸りきることができる、という強さがある。現在という瞬間には、音しか存在していない。自分すら消えてしまうような、そんな感覚。

 もちろん、漫画や小説などでも、熱中して我を忘れるようなことはある。でも、それは音楽での感覚とはまた別種のものだ。何がその違いを生み出すのだろうと考えてみたときに、マンガや小説には、物語が存在するという事実に思い当たった。物語は、基本的に未来志向である。ページを捲るという行為は、続きが気になるという衝動によってなされる。そこには未来への期待しか存在しない。だからかは分からないが、漫画や小説だと、現在という瞬間は、来るべき未来への生け贄という感覚がある。これは、「いま、この瞬間」に浸る感覚とは対照的だ。

 音楽にももちろんそのような部分はあるのだけれど*1、現在志向が強い媒体であると思う。単純に、未来志向に飽きてきた、というのもある。未来への期待にどこか乗っかりきれない自分がいるのだ。

*1:サビ前には決まって、サビが来ることを匂わせるフレーズが入るけれど、これは未来志向的といえるかもしれない

1億人について

 どこを見渡してみても、こいつには敵わないんじゃないか、と思ってしまうような人は居るものだ。自分よりずっとずっと情熱的な(or 面白い or 強烈な or 頭脳明晰な or コミュ力に長けた or 我慢強い etc..)人。そんな人を見て、どうしても気が滅入ってしまう日もある。けれど、日本だけで1億2800万人もの人間が居ることを考えると、なんとなく気が楽になる。そりゃあ1億人も居りゃあ、スゴイ人なんていくらでも居るわな。だって1億人である。

スマホゲーについて

 ゲームにハマりたい。が全然続かない。大した本数やってないし、基本的にすぐ飽きるし、自分はそもそもゲーム好きではないのだろう。ただ、人生でもそうないレベルの感動をゲームで何回か味わってしまったせいで、呪縛のようなものに取り憑かれてしまっている。

 じゃあ気軽にできるスマホゲーあたりに手を出してみるか、と思うも挫折。人気のあるスマホゲーは、チュートリアルがやたら長いのが多い。これがどうも作業感があって、チュートリアルでだいたい投げてしまう。自分が思うに、良いゲームは大抵チュートリアルと本編とがうまい形で融合している。説明書の丸写しみたいなチュートリアルをやらせるのは、制作側の怠慢じゃなかろうか。と偉そうなことを口走ってみたりする。

 例えば、星のカービィというゲームボーイのアクションゲームがあるのだけれど、このゲームではホバリングという空中を浮くアクションが重要だ。1面のまず最初に、ホバリングを使わないと超えられない高い壁が出てくる。ステージが、そのままホバリングチュートリアルとして機能するように作ってあるのだ。この仕組みを知ったときは感動したなあ。

05 教えてくれるな | 桜井政博のゲームについて思うことアーカイブ - コミニー[Cominy] / ブログ

 リンクも貼っておこう。宮本茂氏がそのステージの意図に気づいたというエピソードもさすがというか。マリオだって、きちんと1面がチュートリアルとして設計されている。

マリオ研究

 これもリンク貼っておこう。もちろん、スマホゲーという様式はまだ歴史が浅いので、本編とチュートリアルとをうまく融合させる方法がまだ見つかっていない、というのはあるのかもしれない。スマホゲーはどんどん進化しているけど、僕ほど怠惰な人間だと始めることすら叶わない。進化の余地はまだまだたくさんあると勝手に思っている。

ぶら下げられた人参について

 欲しいけれどなかなか手に入らないものというのは、手にした瞬間に色褪せてしまうことがある。この感覚を最初に自覚したのは中学生の頃だったように思う。1年待って、お年玉をはたいてニンテンドーDSを買ったが、いざ手に入れると、喜びでなく一抹の虚しさのようなものを覚えた。ソフトはなんにしようかな、何色がいいかななどと頭を悩ませている瞬間こそが最も幸福だったのだ。

 そういったことを繰り返しているうちに、なんだか欲しいはずのものを純粋に欲しいと思うことができなくなってしまった。今までの自分は、美味そうな人参がそこにぶら下げられていたからこそ、なんとか前に進もうという意思が生まれていた。あの人参は実は美味しくないのでは、と疑念が頭をもたげてくると、なんというかどうしようもない。ぶら下がるに値するような、美味しいと信じられるような人参を必要としている。