寝ることが好きだ。人並み以上に好きだ、という自負がある。これから、どんどん肌寒くなってきて、ふわふわの羽毛布団にくるまるのが楽しくなってくる季節になる。それを考えるだけで、ワクワクしてしまう。勿論、夏は夏で素晴らしい。クーラーをガンガンに掛けて、その風を受けてひんやりした羽毛布団を抱枕のようにして眠るのだ。まず、そういう身体的な楽しみが睡眠にはある。次に、精神的な快楽。眠りにつくまでの、ぼーっとした、なにもしない時間が大好きだ。本当はずっと何もせずに居たいのだけれど、そういうわけにはいかない。でも、睡眠時間は、なにもしないということが許される、不思議で、素晴らしい時間だ。そして、夢を見るのが楽しい。現実の景色がキメラのように合成された、幻想的な風景を舞台として、ギャグ漫画のように現実離れした展開が繰り広げられる。これが面白くないはずがない。夢のなかで、旧友や、かつて片思いをしていた子に出会うこともしょっちゅうある。そんな夢を見た朝は、しばらく感傷に浸ってしまう。これがまた楽しい。
0の0乗について
一旦更新をサボってしまうと、ズルズルと更新が滞ってしまっていけない。それはともかくとして。上のエントリを読んだものの、どうも釈然としない部分があるので、はてなブログでtexを使う練習がてら、つらつらと書いていきたい。記事作成に携わっている方(早大院卒で、専攻は整数論!)に比べると、自分は数学のド素人でしかないのだが、この記事は高校数学の範疇での解説らしいので、その範疇で重箱の隅をつつくことくらいはできるんじゃないかと思う。全く大したことは書いていない。
筆者は始めの方で、になる理由を説明しているのだが、これがどうも片手落ちの感がある。筆者はになる理由を、であることを用いて説明しているが、がの逆数になる理由については、なんの説明もない。定義だから、定義としてすんなり受け入れなければならないらしい。そんなことを言うのなら、になる理由も、定義だから、で良いじゃないか。がの逆数であることをきちんと説明しない限り、になる理由を説明したことにはならないだろう。しかも、のマイナス乗という概念を使わなければ、になることが説明できない、というわけでもない。この説明方法は、無用な混乱を招くだけのように思える。
これから、自分なりにであることを平易に説明したい(ごくごく一般的な説明方法だと思うが)。まず、の乗と、の乗を掛けあわせたものを考える。の乗は、を回掛けあわせたもので、と表される。同様に、の乗は、を回掛けあわせたものになり、となる。
上で言ったことを踏まえると、となる。は、を、回掛けあわせたものだ、とも考えることができる。を、回掛けあわせたものは、と表される。つまり、である、ということがわかる。同じように考えれば、だし、だ。
ひとまず準備が整った。ここで、という式について、考えてみたい。先ほどの法則を適用すると、ということがわかる。ここで、なので、である。この式の両辺にを掛けると、となる。
になることについても、同じ考え方で説明ができる。先ほどの法則、および、で有ることを用いれば、である。つまり、である。この式の両辺にを掛けると、であることがわかる。
時間が掛かる割には全く大したことは書けてないし、になる理由しか説明できてないが、まあいいや。文章の後半部分はいいんじゃないかと思う。勿論、としたほうが便利だったり、理屈に合う流儀も有るんだろうけど。
追記:今更だが、筆者がわざわざを持ちだした意図っぽいものが分かった気がした。恐らく、という式を持ってきて、その流れから、という式が出る。ゼロ除算は定義されないので、そりゃあも定義されないよ、というふうに持っていきたかったのか。なるほど。それにしても、ちょっと不親切な気もするなあ。
後悔について
自分は、あまり後悔しない人間だと思っている。だからかは知らないが、後悔しないように生きよう、みたいな人生訓めいたものに対して、なんとなく腑に落ちないものを感じたりもする。後悔というのは、過去の自分の行為に対して、もっといい方法があったのに、と現在の自分が強く思ったときに表出する感情だと思う。もっと言うなら、現在の自分が、過去の自分を責める感情。でも、もっといいやり方があったのに、と思うのはあくまで現在の視点でしかなく、過去の自分にとっては、最善の選択と思って、或いは止むにやまれず、そのやり方を選んだのだろう。過去の自分が、その選択に至るまでにはある種の必然があったのだろうし、それを考えると、よっぽどのことがない限り、過去の自分を責める気にはなれない。
タバコについて
僕自身はタバコを吸わないんですけど、決して嫌煙家ではなく、むしろタバコという文化に愛着を持っているほうだと思う。それは、単純に両親がスモーカーで、小さい頃からあの臭い煙に慣れ親しんでいたというのもあるし、フィクションではタバコが相当かっこいいものとして描かれがちなせいもあるだろうが、それだけが理由ではない。
このご時世、タバコ吸ったって、全然いいこと無い。身体に悪いのは勿論、依存性だってあるし、税金がっぽり取られるし、嫌煙家の人々からは文字通り煙たがられる。でも、むしろそれこそがタバコの美点ではないか、と最近思うようになった。タバコを吸うのは非合理な行為ではあるかもしれないが、その非合理さが人間くさくて、なんとなく好きだ。そして、タバコを吸うというのは、何よりも自分を傷つける行為だ。
ストレスの多い人が拠り所にするものでも、案外自分を痛めつけるような性質のものが好まれていることが多い。それは物理的ないし身体的に人間を傷つけるものもあるし、精神的な面でその役割を果たすものもある。酒や煙草なんていうものは子供には禁止されているが、そもそも必要ないものだろう。ビールは味蕾が死んでいない子供には苦すぎるし炭酸が舌に刺さる。煙草は胸でひりひりしてむせるだけだ。
上の文章は、小野ほりでいの暮らせない手帖|ストレスと戦うオトナたち - 週刊アスキーから引用したものである(好きな文章なので、ぜひ全文読んでいただきたい)。タバコというのは、緩やかな自傷を助けてくれるツールだと思っている。緩やかな自傷というのは、気持ちのいいものだ。夜更かしなんてのは、緩やかな自傷の代表例だと思う。明日の自分を傷つけることはわかっているのに、そして、今の自分にもそこまでのメリットがないのに、なぜかやってしまうのが夜更かしである。スポーツなんてのも、基本的に自分を痛めつけるものである。みんな、自傷するのが大好きなのだ。そして、それはおそらく、生きている上で避けられない、ホントの痛みを忘れさせてくれるからだろうと思う。
なんとなくとっ散らかった文章になったが、僕がタバコを好きなのは、自分を痛めつける、非合理なツールであるからだ。タバコのあり方、というのが、非常に人間臭いものだからだ。という結論めいたものを書いて、この記事を締めくくりたいと思う。
常識について
高校時代の話。同級生とだべっていると、確か、好きな鍋の具材とかの話になって、やっぱりマロニーちゃんは欠かせないでしょ、と俺が言ったのだ。すると、相手は、「マロニーちゃんってなに?」と、こう返してきた。まさか、マロニーちゃんをこいつは知らないのか? 仮にも18年間も生きてきて、マロニーちゃんを知らないとは何ごとか。いったい、どういう生活を営めばマロニーちゃんを知らずに生きていけるのか。少し大げさかもしれないが、俺にとってその出来事は、それくらい衝撃だったのだ。
で、マロニーちゃんを知らずに生きるためのフローチャート図が以下なんですけど、むちゃくちゃ見にくいですね。初めてフローチャートなるものを書いてみたんですけど、難しい。それはともかくとして、マロニーちゃんを知らずに生きるにはどうすればいいのか、というのがご理解いただけたかと。おそらく、多くの人間にとって、極めて高い確率で知る機会が訪れるような知識のことが、しばしば、常識と呼ばれるのだと思う。しかし、この常識というのは厄介で、結構カバーする範囲が広かったりする。どこかで知っていても良いはずなのに、なぜか知らない知識というのは、誰しも持っているはずなのだ。そして、たまたま知らなかったことが露呈したら、驚かれたり、後ろ指をさされたりすることもあるかもしれない。けれど、それを気にする必要は無いのかもしれない。単に、たまたま知らなかっただけなのだから。
センスに対するモヤモヤについて
なにがしかの作品に対して感想を添えるときに、「この作品はセンスが無い/有る」といったような言葉で片付ける人は、意外と多い。この言葉を目にするときになんとなく思ってしまうのは、この人には、センスの有る無しを判断するだけのセンスが備わっている、という自負が有るのかしら、ということだ。センスのない人間が、「センスが無い/有る」という言葉を発したところで、なんの説得力も有することはない。自分は、己のセンスに対して自信を持てない人間なので、こういう言葉に対して、言いようのないモヤモヤを感じてしまうのかもしれない。
書いている途中で思ったのだが、センスという言葉が、どちらかと言えば、個人的な好悪の表明の言葉として用いられがちで、そのくせ、なんとなく客観的な雰囲気を醸し出しているのが、このモヤモヤの原因ではないか。例えば、「この服はセンスが有る/無い」という言葉は、日常会話の範囲内では、「この服が好き/嫌い」程度の意味でしかない。しかし、「センスが有る/無い」とすると、いかにも、センスという絶対的、客観的な尺度が存在しているように見えるではないか。勿論、全ての人間に共通する美的基準というものを否定しているわけではない。しかし、日常では、その基準をセンスという言葉で呼ぶわけではどうやらないらしいのだ。このあたりの齟齬が、自分が感じたモヤモヤの、勘所なのだろうなあとなんとなく納得した。