浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

コインランドリーについて

 ごはんを食べるのは、自分のような人間にとって数少ない楽しみの一つではあるが、どうも気が進まない日もあって、それが今日という日であった。単に食欲が湧かないという日もあるが、今日はそういうのとも違う。言葉にするのが難しいが、ごはんを食べなきゃ腹が減る、ということそのものに対して憤りを感じていたのだと思う。腹が減るから飯を食べなきゃいけない、眠たくなるから寝なきゃいけない、トイレに行かなきゃいけない、風呂に入らなきゃいけない、洗濯しなきゃいけない、定期的に爪を切らなきゃいけない、学校なり会社に通ったりしなきゃいけない。生活する上で、僕たちは多かれ少なかれそういった繰り返しを強制されている。普段はそれに対して何も思うことはなく、むしろ喜びさえもするのだが(今日の昼飯は何にしようかな!)、その枷というものが耐え難く思える今日のような日がある。僕らはその束縛から逃れることはできない。果たして死ぬまで、この無意味にも思える反復を何回繰り返さねばならないのか。そう考えると、憂鬱で仕方なくなるのだ。

 そんなことを考えながら、冬物の毛布を洗いにコインランドリーへと向かった。自分はコインランドリーが好きだ。わざとらしい清潔感のある内観と、煌々と灯る蛍光灯。洗濯という目的にしてはやけにものものしいドラムが並ぶ姿は、SFチックでなんだか素敵だ。ドラムの中で廻る毛布を見ていると不意に、自分の人生が肯定されたような感覚を覚えた。ドラムの単調な回転が、少しずつ少しずつ汚れを落としていく。そのひたむきな繰り返しに救われたのだ。洗濯機が汚れを落とすように、この生活の無意味に思える反復も、徐々にだけれど、なにかの形を創り上げていくのだろう。毛布を洗いに来たのだが、命の洗濯にもなった。