浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

42℃と幸福について

 今日は昼からお風呂に浸かった。暖かい陽が窓から刺さり、加えて湯温がバッチシだったので、自然と「幸せだなあ」という声が漏れてしまった。けれど、「幸せだなあ」と言うには少し大げさ過ぎたような気がして、なんだか逆に萎えてしまった。多幸感を自覚した時点で、蜃気楼のように多幸感は消えてしまうのだ。幸福とは、忘我の境地において存在するものなのかな、と思っている。だから、『私は現在幸福なんだと認識している』という状態はパラドキシカルで、成り立たないのだろう。