浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

先延ばしと無趣味について

 「好きな食べものを先に食べる派? 後に食べる派?」という、割とどうでもいい質問がある。割りとどうでもいいので、この質問に回答することはしない*1。ただ、「好きなことは先に済ます派? 後にとっておく派?」と問われると、断然後者である。後回しにしすぎて、結局やらずじまいということもよくある。
 
 自分の中では、楽しいことに手をつけるのは、嫌なことを始めるのと同じくらい難儀なことだ。楽しいことが楽しく見えるほどに、困難さは増す。その楽しいことは、果たして今行うに値するのか? もっとベストなタイミングがあるのではないか? と考えてしまうのだ*2。嫌なことは当然先延ばし、好きなことも先延ばし、となれば、今できることは、どうでもいいことしかない。面白いと確信しているゲームやら本やらを積んで、楽しさの期待値が低い*3ネットサーフィンにうつつを抜かすのは、多分そのためであろう。いや、ネットの中ですらこの症状は深刻で、好きなサイトの巡回はとっておいて、別に興味のない情報ばかり見てしまうというのはありがちだ。なんというか、損な人間だなとは思う。

 話は変わるが、自分には無趣味な人間である。物心ついたときからそうだった。趣味と言うに値するような、好きなことがやっと見つかっても、いつの間にか離れてしまうのだ。それも、前述した性格のせいだとすれば、なんとなく納得である。この性格を直さないかぎり、あるいは、この性格を凌駕するほど猛烈に好きな対象を見つけないかぎり、自分が趣味を獲得することはできないのだろうか。

*1:強いて言うなら、好きだろうと嫌いだろうと、はじめに汁物に手をつける。

*2:恐らくこれは、広義の貧乏性と言ってもいいものだと思う。これを買うお金で、もっといいものが買えるのではないかと考えて、結局何も買わないのにも似ている

*3:ネット上のコンテンツは他の娯楽に負けないくらい面白いものがたくさんあると信じているが、自分に合うものを探すまで時間がかかり、玉石混交の感が強いのは否めない。付言するなら、ネットの中毒性はその玉石混交さにあると思う。