浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

暇と退屈について

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

  

 上の本を紹介しているブログを読んだ。それで思い出したのだが、浪人時代に紀伊国屋でこの本を立ち読みした。浪人の頃は、本分である受験勉強に対する熱意を無くし、かといって特にすることもなく、退屈で退屈で仕方なかったので、本の内容に惹きつけられるものがあったのだろう。内容はだいぶ忘れてしまったが、立ち読みで全部読み切ったと記憶しているので、結構面白かったのだと思う*1。その本に、人間はもともとノマドだったけど、農業技術の発達により定住することになり、そして定住が暇を生み出した。というような内容の箇所があった。浪人時代は行くあてもなく数時間チャリを漕いで暇を潰す毎日だったので、このあたりに共感したことをうっすらと覚えている。移動という行為は、暇つぶしの方法として、とても優れたものだ。

 上の段落とはあまり関係ないのだが、退屈というのは毒であるが、それをうまく使いこなすと薬にもなるのだな、と近頃とみに感じる。学校教育は、退屈というものをうまく取り扱っている。例えば、講義という形式は、適度の退屈を担保する、という点において、非常によく出来ている。落書きするか妄想するか、ノートをとって話を聞くかするしかない、という退屈な状況だと、興味のないはずの話もそれなりに面白く聞こえてくるものだ。テストだってそうだ。世の中のテストは、重要であれば重要であるほど待ち時間が長くなるという性質がある。勿論、何らかの不手際に対応できるように余裕をもって時間をとっている、ということだろう。一方で、退屈をつくりだすことで問題への集中をもたらす効果がある、と考えることもできる。情報に対する飢餓状態におくことで、普段興味のないものに対しても集中できる、ということは間違いなくある。自分が一冊の本とともに牢獄に入れられたら、どんなにつまらない書物であっても貪り読むことになるだろう。インターネットは、退屈を徹底的に殺しにくる媒体なので、その点では非常に危ういなと思う。退屈をうまく飼い慣らせる人間になりたい。

*1:すごくどうでもいいことだが(というこの前置きがどうでもいいのだが)、椅子に座って読んだので、厳密には立ち読みではない。本屋の中でタダで読んだ、というニュアンスを出すために立ち読み、と表現した。