浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

タバコについて

 僕自身はタバコを吸わないんですけど、決して嫌煙家ではなく、むしろタバコという文化に愛着を持っているほうだと思う。それは、単純に両親がスモーカーで、小さい頃からあの臭い煙に慣れ親しんでいたというのもあるし、フィクションではタバコが相当かっこいいものとして描かれがちなせいもあるだろうが、それだけが理由ではない。  

 このご時世、タバコ吸ったって、全然いいこと無い。身体に悪いのは勿論、依存性だってあるし、税金がっぽり取られるし、嫌煙家の人々からは文字通り煙たがられる。でも、むしろそれこそがタバコの美点ではないか、と最近思うようになった。タバコを吸うのは非合理な行為ではあるかもしれないが、その非合理さが人間くさくて、なんとなく好きだ。そして、タバコを吸うというのは、何よりも自分を傷つける行為だ。   

ストレスの多い人が拠り所にするものでも、案外自分を痛めつけるような性質のものが好まれていることが多い。それは物理的ないし身体的に人間を傷つけるものもあるし、精神的な面でその役割を果たすものもある。酒や煙草なんていうものは子供には禁止されているが、そもそも必要ないものだろう。ビールは味蕾が死んでいない子供には苦すぎるし炭酸が舌に刺さる。煙草は胸でひりひりしてむせるだけだ。  

 上の文章は、小野ほりでいの暮らせない手帖|ストレスと戦うオトナたち - 週刊アスキーから引用したものである(好きな文章なので、ぜひ全文読んでいただきたい)。タバコというのは、緩やかな自傷を助けてくれるツールだと思っている。緩やかな自傷というのは、気持ちのいいものだ。夜更かしなんてのは、緩やかな自傷の代表例だと思う。明日の自分を傷つけることはわかっているのに、そして、今の自分にもそこまでのメリットがないのに、なぜかやってしまうのが夜更かしである。スポーツなんてのも、基本的に自分を痛めつけるものである。みんな、自傷するのが大好きなのだ。そして、それはおそらく、生きている上で避けられない、ホントの痛みを忘れさせてくれるからだろうと思う。  

 なんとなくとっ散らかった文章になったが、僕がタバコを好きなのは、自分を痛めつける、非合理なツールであるからだ。タバコのあり方、というのが、非常に人間臭いものだからだ。という結論めいたものを書いて、この記事を締めくくりたいと思う。