浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

断片012

◆社会階層の分断みたいな話、定期的にはてブでバズるし、今もバズっているけど、そんな感じの話をしようと思う。かなり脱線しちゃってるけど。

◆自分の卒業した小学校は、どちらかというとガラが悪いほうで、授業サボるやつとか、学校にタバコ持ってくるやつとかが普通に居る感じだった。で、そんな感じのクラスの中で一番のヤンキーと席が隣になっちゃったことがあって、ビビっていたのだけれど、そのヤンキー全然授業に出ないからわりと気楽だった。そのヤンキーが珍しく授業に出たときのことなんだけど、久々の授業だからか、明らかに集中力を欠いていて、「ちんこが痒くなってきたんだけど、あっ、勃ってきた」とか俺に話しかけるわけです。知らんがな。で、「せっかく勃ったから、俺のチンコ見る?」とか尋ねてきて。なにがどうせっかくなんだよ。でもまあ俺はビビりですから、ヤンキーの気を悪くさせないように、「見る見る」とか言うしかなくて。見たら見たで「どう思う?」とか感想を求められて。色々考えて「おっきいよ」と答えといたよ。普通授業中にチンコ見せるか? ヤンキーの考えることはほんとにわからない。

◆で、中学受験をしまして、国立中に行ったんですよ。この国立中がお坊ちゃんお嬢ちゃんばっかりで、結構カルチャーショックだった。入学して一番びっくりしたのは、歯の矯正で歯になんかはめている人がとにかく多かったこと。小学校時代にはまったく見たことなくて、歯の矯正って概念をそこで初めて知った。そして、今調べたけれど歯の矯正って費用めちゃくちゃするのな。100万近い。それだけ金持ちの子どもが多かったのだろうな。あと、友達の家に遊びに行ったりしてびっくりしたのが、一軒家に住んでいるって人が多い。一軒家に住んでいる子、小学校のときはまず居なかった。あと、医者志望の子どもが多かったのにもびっくりした。英語の授業で将来の夢をスピーチしろ、みたいなのがあったけど、半数以上が壊れたスピーカーみたいに"I want to be a doctor."って言ってて怖かった。

断片011

◆数年前、1万円もする良い感じの万年筆(パイロットのカスタム74ってやつ)を買って、文字を書くときはだいたいその万年筆を使っていた。けれど、久しぶりに100円のちゃちいシャーペンを使ってみたら、案外書き心地が良いというか、むしろ万年筆の書き味より好きだということに気がついてしまった。今持ってる万年筆って、金ペンだから書き味が良すぎて滑るんだよなあ。もちろん長時間書いても疲れないとかメリットはあるんだけど、あまりにスラスラ筆が進みすぎて字がぐじゃぐじゃになってしまう。シャーペンだと書き味がスムーズでないぶん、字も自ずと丁寧になる。いっそのこと鉛筆でもいいかもな。でも芯を削る面倒くささとか考えるとやっぱシャーペンがベストかもな。

断片009

◆この前昼ごはんにうどんを食いに行ったのだけれど、いつもそれなりに多いはずの場所なのにガラガラでびっくりした。ちょうど桜が満開だったから、みんな弁当でも買って公園で桜を見ながら食べてたのだろう、と推理したが、それにしてもガラガラだった。桜の力恐るべし。多分他の店も商売上がったりだったんだろう。代わりに弁当屋とコンビニは稼ぎ時だったろうなあ。個人的には桜は嫌いで、というのも桜が咲く時期にいい思い出がないからだ。桜が咲く時期は、人間関係や環境がガラリと変わってしまうことが多い。環境の変化は自分のような人間にとってはそれなりの負担で、しばらくのあいだ不安と憂鬱と高揚とがないまぜになったような気分に陥る。環境が変化しない年も、条件反射で桜を見ると心がざわざわしてしまう。逆に自分が好きなのは金木犀。生活にも慣れてきて涼しくなった頃、控えめな見た目とそれなりに強烈な香りで金木犀が主張しだすと、なんとなくホッとする。

断片008

◆生の無意味さというと大げさだけど、なんか色々空しくなるようなことがあったとき、視点をミクロにもっていくよう意識している。日常が無意味に感じられるのは、きまって日常を俯瞰して見ているときで、高いところから見れば、日常は穴を掘ってそれをまた埋めるような繰り返しでしかない、と思ってしまう。けれど、微視的な見方をすれば、掘る穴の深さも形状も、土の硬さも毎回微妙に違っていて、そういうところに面白みを感じることもできちゃったりもする。

断片007

◆このごろゲームをやっている。Switchのゼルダ。ブレスオブザワイルド。弟が買ってきたやつをやらせてもらっている形。自由度が高いゲームなので、同じゲームをプレイしてるのに話が噛み合わないことも多い。自分はメインのストーリーを丁寧に追っていくのだけれど、弟はストーリーそっちのけで探索しまくっている。この数年レトロゲームとかSteamのインディーゲーばっかやっていたので、いわゆる超大作のゲームは久しぶりだ。やっぱ超大作ならではの圧みたいなのを感じる。ってかマップ広すぎる。どうなってんだ。どれだけのリソースを割いたらこうなっちゃうんだ。

◆この前自転車で派手にコケて数針縫う怪我をしちゃったのだけれど、なんというか思っていたより辛くない。そりゃ痛かったのだけれど、内臓系とか精神系の痛みに比べて不快感がないというか、むしろ爽やかさすら感じさせる痛みだよなあ、とか整形外科のベッドに横たわり、麻酔を受けながら考えていた。筋肉痛とかもそうだよな。痛いは痛いけど、気持ちよさすら感じる痛み。

断片006、あるいは面白さについて

◆ブログ、書こうと思っているが続かない。あまりに続かないので、自分にルールを課してみる。

  • 面白いことを書こうとしない
  • 頑張って書こうとしない
  • 上の2つのルールを必ずしも守らなくてよい

とりあえずこの3つ。最初のルールは、まず自分の書くハードルを下げるために重要である。そして、ブログという媒体では、面白いことを書こうとしないことが、かえって面白さにつながることが多々ある、と思うのだ。これだけじゃ何が言いたいかわからないと思うので以下で説明するが、そもそも面白さってなんだろうか。面白いことの条件ってなんぞや? 加算無限個の切り口がある問題だが、自分なりの回答をするならば、文脈の変更を迫るものこそが面白いものであると思う。ミステリのネタばらし、お笑いのコント(アンジャッシュとかがわかりやすい)、例はなんでもいいけれど、今まで自明視していたものが、なんらかの形でずらされるような体験は、面白さの本質の一つであるように思うのだ。つまり、面白いものを創り出すには、なんらかの形で文脈をずらしてやればいいのだが、これがけっこう難しい。ってか、それができりゃ苦労はしない。けれど、ブログという媒体は、過去の蓄積がある。そして、過去の蓄積から読み手は書き手の人物像を想像する。人間の想像力には限界があるので、新しく文章が更新された場合、自分の描いていた人物像と齟齬をきたす場合がある。過去の文章(から思い浮かべる書き手の人物像)がある限り、わざわざ書き手が文脈をずらさずとも、読者は絶えず文脈を更新され続けるのだ。長々と書いてきたけど、人が連続して語る行為そのものに面白さが現れるので、文章自体が面白いものである必要はない、ということです。もっと言うと、ブログとかYoutuberとかはその形式そのものに面白さが既に埋め込まれてるってことです。あとの2つのルールについては特に説明しない。いや、頑張って書こうとしないってルール決めたばっかりだし。

◆イヤホンが壊れたのでSE215を買った。自分はイヤホンを音の鳴る耳栓くらいにしか考えてないので、遮音性能が高いのが最重要で、音質は割とどうでもいい。音質はどうでもいいのに、1万円近いイヤホンを買ってしまった。どう考えても贅沢である。今まではウォークマンノイズキャンセリングイヤホンを使っていたが、ノイズキャンセリング機能がついているために、端子の形状が普通のイヤホンと異なっていて、ウォークマンやエクスペリア以外ではまともに機能しないのがネックだった。このSE215ではそんなことはなく、遮音性能は抜群でまあ買ってよかった。リケーブルができるというのも大きい。