浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

断片005

◆生きるのが辛くなったら味噌汁をつくろう。味噌汁もつくれないほど辛いときもあるけれど、そうでないなら味噌汁をつくろう。なにもかもうまくいかないときは、美味しいものを食べるのがよい。けれど、外に出て食べるのも億劫だし、なにか凝ったものを自炊する気になんてなれない。かといって、コンビニ弁当や冷凍食品で済ませるのはさみしい。そんなときに、味噌汁をつくるのだ。味噌汁は裏切らない。きちんと出汁をとって、味噌を溶いてやれば、必ず美味しい味噌汁が出来上がる。面倒なら具材を入れる必要もない。少し気力があるなら豆腐を切って入れればよい。美味しい味噌汁があるなら、あとは白米と質素なおかず*1を足すだけで、悪くない食卓となる。

*1:納豆でもいいし、たまごかけごはんでもいい。ちりめんじゃこに醤油を足したものなんかもいい

断片004

◆あんまり具体的なことを書く気分じゃないのでぼんやりとした表現になるが、現実がこのところうまくいっていなかった。なので、うまくいかないことをとりあえず断念して少し休むことにした。しばらくは休むことに専念していたが、ようやっと元気が出てきたように思う。元気が出てきた副作用だろう、なにかなさねばとという焦燥感に襲われることが増えた。その焦燥感の解消のためにも、しばらくブログでも書いてみるか。

断片002

◆最近は印象的な夢を見ると、朝一に夢の内容をメモにとることにしている。今日見た夢は、「でかいさかなのウロコをとる夢」らしい。ふーん。全く覚えていない。こういうことをすると、自分の連続性が揺らぐので面白い。こんな意味不明なメモを見せられると、十数時間前の自分と現在の自分が同一であるとは到底思えないもの。

◆今日はあんまり好きじゃないほうのスーパーに行った。行きつけのところに比べて、惣菜が微妙だったり、値段が高かったりと足が遠のく理由は色々あるのだが、決定的な理由としては、税抜価格表示であることが挙げられる。

断片001

◆せっかくの新年度だし、しばらく日記でも綴ろう、という気になった。本当は昨日から始めるつもりだったのだが、無気力で一日ベッドから出られなかった*1ので仕方がない。仕方がない、と思えるようになったのは成長した部分で、外出したほうが良いといくら思ったところで、外出できるようにはならず、いたずらに苦しくなるだけなのだ。

◆今日は銭湯にも行ったし、ちびちびながら読書もできた。自分は文字を追うこと自体に快感を覚える体質ではないので、書いてある内容が自分にとって何らかの価値がある、という期待がないと本を読み進めることは到底できない。そして、その期待さえあれば、中身が大したものではなくとも、自分の頭のなかで再構成して勝手に楽しんだりするのだと思う。本との出会いには、お見合いタイプと一目惚れタイプとがある。お見合いタイプでは、その本の評判やレビューを吟味して、気が合いそうな本を実際に読む、という流れだ。一目惚れタイプは、なんの前情報もなしに、なんかいいなと思って手に取ってしまう。そして、後者のほうが期待感はどうしても上になるのだよなあ。

*1:実際は何度かトイレに行ったし、飯を買いに近くのセブンイレブンに行ったのでこれは誇張表現である。期間限定のヒレカツサンドは美味しかった

コインランドリーについて

 ごはんを食べるのは、自分のような人間にとって数少ない楽しみの一つではあるが、どうも気が進まない日もあって、それが今日という日であった。単に食欲が湧かないという日もあるが、今日はそういうのとも違う。言葉にするのが難しいが、ごはんを食べなきゃ腹が減る、ということそのものに対して憤りを感じていたのだと思う。腹が減るから飯を食べなきゃいけない、眠たくなるから寝なきゃいけない、トイレに行かなきゃいけない、風呂に入らなきゃいけない、洗濯しなきゃいけない、定期的に爪を切らなきゃいけない、学校なり会社に通ったりしなきゃいけない。生活する上で、僕たちは多かれ少なかれそういった繰り返しを強制されている。普段はそれに対して何も思うことはなく、むしろ喜びさえもするのだが(今日の昼飯は何にしようかな!)、その枷というものが耐え難く思える今日のような日がある。僕らはその束縛から逃れることはできない。果たして死ぬまで、この無意味にも思える反復を何回繰り返さねばならないのか。そう考えると、憂鬱で仕方なくなるのだ。

 そんなことを考えながら、冬物の毛布を洗いにコインランドリーへと向かった。自分はコインランドリーが好きだ。わざとらしい清潔感のある内観と、煌々と灯る蛍光灯。洗濯という目的にしてはやけにものものしいドラムが並ぶ姿は、SFチックでなんだか素敵だ。ドラムの中で廻る毛布を見ていると不意に、自分の人生が肯定されたような感覚を覚えた。ドラムの単調な回転が、少しずつ少しずつ汚れを落としていく。そのひたむきな繰り返しに救われたのだ。洗濯機が汚れを落とすように、この生活の無意味に思える反復も、徐々にだけれど、なにかの形を創り上げていくのだろう。毛布を洗いに来たのだが、命の洗濯にもなった。

留年について

留年について-カウンセリングルーム(京都大学)

 京大カウンセリングルームの、留年についてのページがホッテントリになっていた。実は、前から個人的に何度となく読んで、そのたびに励まされている文章だ。その文章が評価されていることへの嬉しさよりも、正直、悔しさが勝った。なぜって、もし自分がそのときブクマしていれば、ファーストブクマが伸びるという最高に気持ちいい体験ができたかもしれないからだ。

 初めてこのページを読んだとき、ブクマするのを躊躇して、結局やめた記憶がある。自分のパーソナルな情報が浮かび上がるのを恐れたのだ。だって、こんなページにたどり着く時点で、留年しそう/する大学生だと決まったようなものじゃないか。その頃の自分は、匿名空間の延長線上としてはてブを使ってきたので、些細な情報でも漏らしたくなかったのだ。でも2年もブクマしていると、そんなことはかなり難しいということが分かってくる。ブログでも既に学生であることを匂わせているし、もう今となっては関係のないことだ。


 久々に書いてみたけど、あんま留年関係ねえ……。逃がした魚は大きかったというだけの話じゃないか。