浅窓の平常

To the happy (or unhappy) few

1億人について

 どこを見渡してみても、こいつには敵わないんじゃないか、と思ってしまうような人は居るものだ。自分よりずっとずっと情熱的な(or 面白い or 強烈な or 頭脳明晰な or コミュ力に長けた or 我慢強い etc..)人。そんな人を見て、どうしても気が滅入ってしまう日もある。けれど、日本だけで1億2800万人もの人間が居ることを考えると、なんとなく気が楽になる。そりゃあ1億人も居りゃあ、スゴイ人なんていくらでも居るわな。だって1億人である。

スマホゲーについて

 ゲームにハマりたい。が全然続かない。大した本数やってないし、基本的にすぐ飽きるし、自分はそもそもゲーム好きではないのだろう。ただ、人生でもそうないレベルの感動をゲームで何回か味わってしまったせいで、呪縛のようなものに取り憑かれてしまっている。

 じゃあ気軽にできるスマホゲーあたりに手を出してみるか、と思うも挫折。人気のあるスマホゲーは、チュートリアルがやたら長いのが多い。これがどうも作業感があって、チュートリアルでだいたい投げてしまう。自分が思うに、良いゲームは大抵チュートリアルと本編とがうまい形で融合している。説明書の丸写しみたいなチュートリアルをやらせるのは、制作側の怠慢じゃなかろうか。と偉そうなことを口走ってみたりする。

 例えば、星のカービィというゲームボーイのアクションゲームがあるのだけれど、このゲームではホバリングという空中を浮くアクションが重要だ。1面のまず最初に、ホバリングを使わないと超えられない高い壁が出てくる。ステージが、そのままホバリングチュートリアルとして機能するように作ってあるのだ。この仕組みを知ったときは感動したなあ。

05 教えてくれるな | 桜井政博のゲームについて思うことアーカイブ - コミニー[Cominy] / ブログ

 リンクも貼っておこう。宮本茂氏がそのステージの意図に気づいたというエピソードもさすがというか。マリオだって、きちんと1面がチュートリアルとして設計されている。

マリオ研究

 これもリンク貼っておこう。もちろん、スマホゲーという様式はまだ歴史が浅いので、本編とチュートリアルとをうまく融合させる方法がまだ見つかっていない、というのはあるのかもしれない。スマホゲーはどんどん進化しているけど、僕ほど怠惰な人間だと始めることすら叶わない。進化の余地はまだまだたくさんあると勝手に思っている。

ぶら下げられた人参について

 欲しいけれどなかなか手に入らないものというのは、手にした瞬間に色褪せてしまうことがある。この感覚を最初に自覚したのは中学生の頃だったように思う。1年待って、お年玉をはたいてニンテンドーDSを買ったが、いざ手に入れると、喜びでなく一抹の虚しさのようなものを覚えた。ソフトはなんにしようかな、何色がいいかななどと頭を悩ませている瞬間こそが最も幸福だったのだ。

 そういったことを繰り返しているうちに、なんだか欲しいはずのものを純粋に欲しいと思うことができなくなってしまった。今までの自分は、美味そうな人参がそこにぶら下げられていたからこそ、なんとか前に進もうという意思が生まれていた。あの人参は実は美味しくないのでは、と疑念が頭をもたげてくると、なんというかどうしようもない。ぶら下がるに値するような、美味しいと信じられるような人参を必要としている。

42℃と幸福について

 今日は昼からお風呂に浸かった。暖かい陽が窓から刺さり、加えて湯温がバッチシだったので、自然と「幸せだなあ」という声が漏れてしまった。けれど、「幸せだなあ」と言うには少し大げさ過ぎたような気がして、なんだか逆に萎えてしまった。多幸感を自覚した時点で、蜃気楼のように多幸感は消えてしまうのだ。幸福とは、忘我の境地において存在するものなのかな、と思っている。だから、『私は現在幸福なんだと認識している』という状態はパラドキシカルで、成り立たないのだろう。

 
 

 

相合傘について

 雨に降られながら、近所のスーパーまで夜ご飯を買いに行ってきた。不器用な人間が懸命に自炊したところで、スーパーの四割引の惣菜には勝てないのだ。道中、中年の夫婦が肩を寄せながら、相合傘で歩いているのを見たが、その振る舞いの自然さに感動してしまった。若いカップルにありがちな、どこかぎこちない、ラブラブな雰囲気を演出するための相合傘と違う。それは、雨を避けるという実用に即して、けれど愛も垣間見えるような、そんな凄みを持つ相合傘だった。素直に、羨ましいと思った。

人生について

 ろくに人生に向き合ってこなかった自分が、人生について、なんて大げさなことを考えようとするのは、言うことが無くなったミュージシャンが愛だの平和だのを持ち出すようなもので、つまり殆ど何も考えていないのと同じで、今日の献立はどうするか、洗濯物をいつ干すか、今朝の憂鬱なニュースをどう考えるか、好きでもない嫌いでもない知人とどう付き合うか、そういう些細で具体的な日常を丁寧に考え抜いていくことこそが、人生を考えるということなのかもしれない。

先延ばしと無趣味について

 「好きな食べものを先に食べる派? 後に食べる派?」という、割とどうでもいい質問がある。割りとどうでもいいので、この質問に回答することはしない*1。ただ、「好きなことは先に済ます派? 後にとっておく派?」と問われると、断然後者である。後回しにしすぎて、結局やらずじまいということもよくある。
 
 自分の中では、楽しいことに手をつけるのは、嫌なことを始めるのと同じくらい難儀なことだ。楽しいことが楽しく見えるほどに、困難さは増す。その楽しいことは、果たして今行うに値するのか? もっとベストなタイミングがあるのではないか? と考えてしまうのだ*2。嫌なことは当然先延ばし、好きなことも先延ばし、となれば、今できることは、どうでもいいことしかない。面白いと確信しているゲームやら本やらを積んで、楽しさの期待値が低い*3ネットサーフィンにうつつを抜かすのは、多分そのためであろう。いや、ネットの中ですらこの症状は深刻で、好きなサイトの巡回はとっておいて、別に興味のない情報ばかり見てしまうというのはありがちだ。なんというか、損な人間だなとは思う。

 話は変わるが、自分には無趣味な人間である。物心ついたときからそうだった。趣味と言うに値するような、好きなことがやっと見つかっても、いつの間にか離れてしまうのだ。それも、前述した性格のせいだとすれば、なんとなく納得である。この性格を直さないかぎり、あるいは、この性格を凌駕するほど猛烈に好きな対象を見つけないかぎり、自分が趣味を獲得することはできないのだろうか。

*1:強いて言うなら、好きだろうと嫌いだろうと、はじめに汁物に手をつける。

*2:恐らくこれは、広義の貧乏性と言ってもいいものだと思う。これを買うお金で、もっといいものが買えるのではないかと考えて、結局何も買わないのにも似ている

*3:ネット上のコンテンツは他の娯楽に負けないくらい面白いものがたくさんあると信じているが、自分に合うものを探すまで時間がかかり、玉石混交の感が強いのは否めない。付言するなら、ネットの中毒性はその玉石混交さにあると思う。